「俺、いじめられてるんです」
職員室が一瞬静まり返る。担任の宇島は、俺の言葉を聞いて眉をひそめた。
「いじめてる、の間違いじゃないのか」
「違います。本当にいじめられているんです。クラスの皆に無視されて、真壁や坂下に毎日殴られたり蹴られたりするんです」
先生、助けてください。藁にも縋る思いでそう言った。
しかし宇島は俺の言葉を聞き、呆れたような顔で溜息をついただけだった。
「中島、お前にも非がある」
信じていないというより、元から信じる気などないのだろう。俺は、いくらこの人に訴えかけても無駄なのだと理解した。この大人は腐っている。この学校は腐っている。
加害者であった俺が何を訴えようと無駄なのだろう。いや、そもそも魅月の訴えすら聞き入れなかったこいつに期待なんてするのが間違いだった。
「何企んでんのか知らないが、悪戯もほどほどにしとけよ」
含み笑いを見せる宇島。人を見下しきったこの顔が癪に障る。以前は何とも思わなかったが、魅月の立場に立たされてみると、酷く薄汚い面をした大人だった。
その後の予定はいつもと変わらない。休み時間になれば真壁たちに呼び出され、屋上へ行く。行かなければ教室まで乗り込んで来るので、無視するわけにはいかない。面倒だが、事を荒立てないためには従うしかないのだ。そしてまた、いつものように暴行を受ける。身体中を襲う痛覚は次第に色濃くなり、至る所に鮮烈な傷痕を残していく。青黒い痣や赤い切り傷によりすっかりぼろぼろになってしまった自分の腕を目にして、思わず顔をしかめた。
「笑えよ」
頭上で真壁の声がする。
「俺たちおちょくってた時みたいに、笑えよ」
口内に広がる鉄の味を飲み込み、俺は口を固く閉ざした。おちょくられていたのは、むしろ俺のほうだ。
――生まれ変わって、もっと楽しい人生を送ろうとは思わないのか？
――こんなことに耐えて、何になる？
――帰れば母親にもっとまじめにやれと怒られ、宇島にはお前が悪いと言われ、学校ではいつもひとりぼっちじゃないか。
――お前、生きてて楽しいか？
悪魔は俺に絶望的な現実をまざまざと見せつけ、心の隅に追いやっている感情を巧みに引きずり出そうとする。脳裏で囁かれる言葉はどれも心に突き刺さるものばかりだった。
視線を外に向けると、有刺鉄線を張られたフェンスが視界に映った。
あの向こうに飛び降りれば、楽になれるのだろうか。
地面に腕を突き立てるが、力が入らない。何日もまともに食事なんてしていなかった。食べても全部吐きだしてしまうのだから、食事なんて意味がないのだ。背中に衝撃を受け、口内から胃液がこみあげる。それでも嘔吐中枢は有害物を吐き出そうと命令を繰り返す。
俺は悪魔に呼びかけた。
（おい、力貸せよ）
すると、意識の外で自分の口元が緩んだ。俺の身体を借りた悪魔は短く笑い声を上げる。
――最初から素直にそう言えば良かったんだ。
ふっと身体が軽くなる。俺は真壁と坂下の攻撃を難なく躱し、真壁の腕を強く引っ張った。真壁はバランスを崩し、驚いたような顔で地面に崩れる。坂下に制服を掴まれる。それを強引に振り払い、フェンスへと走る。網目に足をひっかけて登り、脚と腕の力で有刺鉄線をも越えた。
フェンスの向こうに降り立てば、一人立てるほどの僅かな足場しかない。下から上へと昇っていく風音に包まれながら、住み慣れた幕針町の風景をゆっくりと見渡す。母さんは俺のために泣いてくれるだろうか。果たして、泣いてくれるのだろうか。
「おい、待てよ中島！」
坂下が叫ぶ。俺は構わず一歩大きく踏み出した。身体は簡単に宙を飛んだ。視界が反転し、耳元で風が唸る。大きくうねる空気の流れに飲み込まれ、重力に沿って落ちていく。
怖くはなかった。
俺はようやく自由になれたのだ。
殺される前に死んでやるのだ。
ざまあみろ。
- continue -
2011/07/26