そうして引きずられて来たのはいつもの屋上だった。着いた途端肩に食い込んでいた手が離れ、背中から地面に叩きつけられる。綺麗な青空を背にこちらを見下ろす真壁の顔には、何の感情も浮かんでいない。それがいつにも増して恐ろしかった。
「何なんだよ、急に」
平静を装って出したつもりの声が震えた。平常心であろうとすればするほど、震えがひどくなった。羞恥心と怒りで顔が火照る。
どうして俺がこんなに追い詰められなきゃいけないんだ。
「坂下も、何とか言えよ」
「井川とつるんでた奴に言うことなんてない」
「あれは誤解なんだって」
声を荒げても、二人の表情が和らぐことはない。殺気立つような恐ろしい空気を醸し出す二人に対し、俺はただ「違う」と繰り返した。どう言えば信じてもらえるのだろう。
悪魔に操られているのだと言うことが出来れば事は簡単に解決するのだが、口が開かない。僅かに開いたかと思うと、鉛のように動きが重くなる。悪魔、という単語はどうやら禁句のようだった。
「あ」それでもどうにか、唇をこじ開ける。「悪魔が」けれどもそれ以上は続かなかった。顎の関節が上手く機能せず、ただパクパクと閉じたり開いたりを繰り返す。「悪魔って俺たちのことか」と坂下が笑う。違う、そうじゃない。馬鹿みたいに何度も口の開け閉めをしてみて解ったのは、「悪魔」という単語を口にすると口周りの自由を奪われてしまうということだった。
「じゃあその“悪魔”に今まで黙ってついてきたお前は、何なんだよ」
真壁の足が腹の奥にめり込む。悲鳴を上げそうになったが必死に歯を食いしばる。これ以上かっこ悪い姿を二人の前に晒して惨めになりたくなかった。内臓が圧迫され、下から上へと嘔吐物がこみ上げる。身体を抉られるような激痛に耐え切れず、少し吐いた。刺激臭のする吐しゃ物の上に、顔を押し付けられる。
頭の中には耳触りな笑い声が延々と響き渡っていた。愉快そうに悪魔が笑う。眉間の皺を取り払い、固く閉ざしたはずの口元がうっすらと開く。
俺は泣きながら笑っていた。
「何で井川と一緒にいたんだよ」
すぐにまた蹴りが飛んできた。土砂利と鉄の味がして、口を切ったのだと分かった。肌が靴裏と擦れ、ひりひりと痛む。
――お前は罰を受けるんだ。
脳内で悪魔が囁いた。
――死んだほうがマシだと思わないか。
俺はその時ようやく理解した。きっと最初からそれが狙いだったのだ。井川も悪魔も、一緒になって俺を自殺へ追い込もうとしている。真壁たちに殺されるにしろ自ら屋上から飛び降りるにしろ、井川が直接手を下すことはない。クラス内での井川の立場を考えれば、誰もあいつが俺を死なせたなどと思わないだろう。悔しいがよく練られた作戦だ。
真壁とつるんだのが間違いだったのだろうか。真壁とは一緒のクラスで、席が前後だった。俺は早く友達を作りたくて、必死に話を合わせた。ひとりぼっちになりたくないから、何でも調子を合わせて顔色を窺っていた。真壁と一緒にいることで、別に何を得られたわけでもない。ただ他人よりは安全な場所にいる。それだけだった。虎の威を借る何とやらだ。
真壁と俺は友達なんかじゃない。ただ一緒につるんでいる、それだけの繋がりだ。あいつは俺たちのリーダーで、俺は都合のいい駒だ。
――もう一度人生をやり直そうとは思わないか。
出来るものならば、今すぐにでもやり直したい。
目の上に大きな青あざをつくり、虚ろな目をして、中島灯児は今日もひとり廊下を歩いている。埃まみれの制服は洗った形跡がなく皺だらけだ。これから実験室で授業だというのに教科書も持たず、彼は覚束ない足取りでどこかへ向かう。
井川竜は足を止め、彼の後ろ姿を食い入るように見つめていた。
「なんか、気持ち悪いよね。中島ってさ」
「暗いし、なんも喋らないし、何考えてるのかわかんないよね」
クラスメイトの会話を耳にしてか、井川竜はひっそりと笑う。
角を曲がる際、不意に井川竜と目を合わせた中島灯児の双眸からは、やはり生気が感じられない。けれども彼の唇が小さな弧を描き白い歯を見せたことで、井川竜は微笑を湛えて再び歩き出したのだった。
- continue -
2011/05/17