夕日に染まる安芸東の町を見下ろす位置にある東山の頂に、一人の男が立っていた。何の前触れもなく唐突に現れたその男は黒装束を身に纏い、くわえた煙管から煙をゆったりと吐き出す。
「戻った」
男がそう呟いた直後、その周りに青白く渦巻く炎がひとつ、ふたつと現れる。増えていく炎に男はさして驚くこともなく目を向けた。
「白狐の子供は桜町だ」
男の言葉に、炎たちの気配が揺れた。ざわめきが辺りに木霊する。
男の目は血走って爛々と光っていた。
「陰陽師共は白狐の子を人の子に還そうとしている」
桜町へ急げ。男はそう言ってにやりと口元を歪ませた。その言葉に呼応し、炎がひとつずつ消えていく。やがて東山に再び静寂が訪れる頃、辺りはすっかり暗くなっていた。
男は暫らくその場に佇んでいたが、やがて冷たい空気に溶け込むように姿を消した。
*
俺が怪我をしたあの日から、ノバは学校に来なくなった。授業はよくサボる奴だったが、学校にすら来ないというのはどういうことだろう。あいつが来ないので俺はまた孤立し、クラスメイトから更に距離を置かれるようになった。
肩の怪我は思ったよりも重症だった。保健室に行くと保険医の顔色が真っ青になり、どこでその怪我を負ったのかと訊かれた。チンピラに絡まれたのだと言えば、保険医は慌ただしい様子で俺の服を脱がし始めた。ざっくりと切れた傷口を見て保険医はますます顔色を悪くし、てんやわんやで俺は病院へと運ばれ、何針か縫う羽目になった。病院に駆けつけたおふくろに泣かれ、親父にはぶん殴られ親不孝者と怒鳴られた。
それでも、俺は生きている。奇跡的に。
ノバがいなければ、とうに俺の人生は終わっていただろう。だからあいつには感謝している。けれど、俺にきちんとした説明ぐらいはしてくれたっていいんじゃないだろうか。八神という化け物にやられて怪我までしたのに、これじゃあ理不尽だ。またあんなことが俺の周りで起きたら、どうしてくれる。
不満は募る一方だ。苛立つ気持ちをどこにぶつけることもできず、俺は今日も悶々とした気持ちを抱えたまま、校舎裏で暇を潰していた。授業を受けるような気分ではない。青空に向けて煙を吐き出すと、少し気分が落ち着いた。
「こんなところで何やってんだ、瀬川」
ぬうっと背後に影が現れたかと思いきや、野太い声が俺の名を呼んだ。振り向くまでもなく、ゴリラ教師の声だ。振り向くと、黒のジャージパンツと黒のタンクトップに身を包んだゴリラもとい体育教師の立川がいた。六月下旬にタンクトップをチョイスするところが暑苦しい。
「ゴ……立川。なんでここに」
「てめえ今ゴリラって言おうとしたろ。それに立川じゃなくて立川せ・ん・せ・い、だ」
「さーせん」
「その煙草をよこせ。そしてさっさと教室へ戻れ」
「嫌っす。立川先生も吸いたいんすか」
「未成年が煙草を吸うなっつってんだ馬鹿」
そう言って無理やり口元の煙草を取り上げられた。思わず眉間に皺を寄せて立川を睨み上げる。
「何すんだよ」
「煙草と酒はハタチ越えてからだ。もっと自分の身体を大事にしろ」
「うるせえ」
「教師に向かって乱暴な口をきくな」
「うるさいですよ、先生」
「そういうことじゃない」
はあ、と立川が溜息をこぼす。お疲れのようですね、と言うと頭に拳骨が落ちた。
立川に右腕を掴まれ、無理やり立たされる。肩に走った激痛に顔を顰めると、立川はすぐに腕を離した。
「お前にしちゃ派手にやられたな」
「ええ、まあ」
「誰にやられた」
「知らない奴っすよ。名前とか顔とか、いちいち覚えてねえし」
何度言えばわかるんすか。
俺の言葉に、立川は口を噤んだ。本当のことを言うわけがない。言ったところで信じるわけがない。何より、もうこれ以上あの化け物のことを考えたくなかった。あれがウチの生徒だなんて、何の冗談だ。どうやらあいつも学校には来ていないらしい。もうこのまま来なくていいと思う。
四限目終了のチャイムが鳴る。俺の腹の虫も鳴る。さて、昼飯を食わねば。
「じゃ、俺教室戻るんで」
「待てこら」
踵を返そうとすると、再び右腕を掴まれた。筋肉が引き裂かれるような激痛に、思わず呻く。そっちは痛いつってんだろゴリラ、と喚きたくなるところをどうにか抑え、視線を立川に向ける。
「お前、野葉と仲良かったよな。帰りに今日の分のプリントアイツんちに持ってってくれないか」
「仲良くねえし、あいつの家も知らねえっす」
「じゃあ教えるから、持ってってくれ」
プリントは放課後渡すから、と言って立川は俺の腕を離した。俺は軽く会釈をしてその場を去る。プリントを届けるついでに色々問い質してやろう、と心に決めて。
問い質すどころか会うこともできず地団太を踏むのは、もう少し後のことである。
- continue -
2011/10/14