喪失


 辛かったね

 苦しかったね

 寂しかったね

 もう大丈夫だよ

 私がいるから

 私が護るから

 だから  笑ってよ


 ***


 血に染まった顔、体、右腕。
 右手が生暖かい。
 雪菜の体を貫き、右手の指先が背中から覗いている。
 ヌルリとした感触。
「……ゆう、き」
 なんで。
「なんでだよ」
 弱々しい、震えた小さな声。そんな頼りない声しか出なかった。
 雪菜から右腕を引き抜くと、雪菜はその場にふらりと倒れこんだ。ゆうきはそれを両腕で受け止める。
 水蛇が、少し向こうで唖然とこちらを見ている。
「生きていて、ほしかった、から」
 かすれた声で呟いたその言葉に、ゆうきは目を大きく見開いた。
“イキテ。ナニガアッテモ、イキテ”。
 あの言葉を思い出す。
「……どうして、」
 手足が震えた。衝撃を隠すことができない。
 もう沢山だ。苦しみ悩むことも、信じることも、失うことも。死んでしまいたいと思うことの、何が悪い? 何もかもぶち壊してしまいたいと思うことの、何が悪い? 何故、二人は俺を苦しめる?
 また俺は、独りになってしまうのか?
(嫌だ)
 雪菜しかいないんだ。雪菜だけなんだ。お前が死んだら、誰もいなくなる。俺はまた、堕ちていく。
「死ぬな! 雪菜、死ぬなっ!」
 消えるな。独りにするな。怖いんだ。闇が、怖い。
 雪菜は微笑んで、そっとゆうきの頬を両手で包み込んだ。
 温かい。
「辛かった、ね」
 涙が溢れ、視界がぼんやりと滲んだ。
 目の前のこの少女を初めて、心から愛しいと思った。今更だ。
「ごめん、ごめんな」
 ぎゆっと、壊れないように雪菜の細い身体を抱きしめた。
 まだ温かい。まだ、心臓が微かに動いている。
 人の温かさを、初めて感じた。
 雪菜がゆうきの耳元で囁く。
「ごめんね」
 ドクン、と胸が高鳴った。
「雪菜?」
 冷たくなっていく。体温が奪われていく。
「ちゃんと、護れた」
 そう言った直後、ズンと雪菜の体が重くなった。
 焦げ茶色の瞳はゆっくりと閉じていき、ぴくりとも動かなくなった。


 ***


 全てを破壊しようとした。かき乱してやろうと思った。だけど壊してしまったものは、取り返しのつかない、大切なものだった。
 俺が奪った。母さんの命。そして、雪菜の命までも、今奪おうとしている。俺が、奪っていく。
 生きたい。生きる意味が欲しい。確かにそれが願いであり、目的だった。それを探すことが、俺の生きる目的だった。だけど、こいつらのそれを、俺が奪ってしまっている。
 そんな俺が、生きることを求めていいのか? 赦されるのか?
 それに答えるかのように、風が強く吹いた。顔全体を、風が殴る。
 桜の木や雑草がザワザワと揺れる。数枚、花びらが散った。
 川の静かに流れる音。草花の微香。そして強烈な血の匂い。
 全てが、揺らいだ。
 いいはずがない。
 空を見上げると、夕焼けはとっくに消えていた。それを確認すると、ゆっくりと立ち上がる。
「おい、陰陽師」
 ノバのいる方を向くと、ノバは驚いた顔をしていた。ノバがそこにいることは分かっていた。妙な気を感じていたから。
 ゆうきは言った。
「雪菜を病院へ」
「えっ……でもおま「早く!」……分かった」
 ノバは雪菜を背負うと、急いで土手を登って病院へと走っていった。
(これでいい)
 これで、いいんだ。
 本当なら自分で雪菜を背負って行きたいところだが、ゆうきにはまだやるべきことがあった。
 ゆうきは水蛇を見た。水蛇は未だにビクビクと怯えている。
 そんな水蛇を鼻で笑い、ゆうきは言った。
「おい、蛇野郎」
―……何だ―
「これで全て終わりにしないか」
 一瞬、水蛇の周りの空気が固まった。
―は?―
「お前の炎狐に対する恨みも、俺の母さんのことも、もう沢山だ。だから、全部ここで終わらせる」
 ゆうきは右足を引き、構えをとった。
「最後の勝負だ」
 水蛇は暫く呆然とこちらを見ていたが、ニヤリと笑って言った。
―いいだろう―
 水蛇もゆうきも、思いは同じ。
 必ず勝つ。そして、自由になる。

 

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