マイペース・ガール
金髪の少年が私に微笑みかけた。ああきっと、日頃の良い行いが報われたのだろう。こんな綺麗な男の子に夢の中で会えるなんて。
「珍しい人だね、これが夢だと分かっているの?」
金髪少年は私にそう問いかける。何も声に出していないのに何故私の考えていることが分かるのか、なんて無粋な質問はしない。だってこれは夢なのだから。
「だから、何で夢だと分かるのかって訊いてるんだけど」
金髪少年が再び私に問いかけてくる。
「分かるものは分かるの。仕方ないじゃん」
「へえ」
私の答えに、金髪少年は目を丸くした。「そりゃあ興味深いなあ」
「それより貴方、見たところ外人なのに達者なのね、日本語が」
「だってこれは夢だもの」と金髪少年が言う。ああ、そっか。
私が納得したところで金髪少年がずいと私に歩み寄る。近い近い。
「ところで、僕は君を救うために来たんだ」
「随分突飛な発言をするのね、貴方」
「でもホントのことだ。僕は受験勉強に疲れた君を助けに来た」
ああ、きっと私は疲れているんだ。だからこんな奇妙な夢を見てしまうんだ。限界が近いのかもしれないな。
「じゃあ今すぐ楽にしてよ。夢から覚まさないで」
「自殺の手伝いはちょっと出来ないなあ」と金髪少年は笑った。
「それじゃあ、どうするつもり? 受験勉強から解放してくれるんじゃないの?」
私がそう言うと、金髪少年は更に笑う。私は少し腹が立って、金髪少年の髪を強めに引っ張ってやった。
「いたたた、暴力反対!」
「だって貴方が笑うから」
「違うんだ。馬鹿にしてるわけじゃない。ただ、君の視野の狭さに笑ったんだ」
「十分馬鹿にしてるじゃない」
「ごめんごめん。でも、君はもっと視野を広げるべきだ。本当に大切なことを見落としてしまう前に、気づかなきゃ」
金髪少年はそう言って私の目の前に手をかざした。不思議な淡い光が金髪少年の手から溢れ出す。
「だから、君に僕の力を貸そう」
私の夢はそこで唐突に終わった。ベッドから落ちたのだ。
*
朝。頭を強打したせいで目覚めは最悪だった。痛む後頭部をさすりながら夢で見た金髪少年の言葉を思い返す。僕の力を貸そう、だっけ。確かそんなことを言っていた。力って何だ。中学生の妄想って恐ろしい。あんな痛々しい夢を見てしまうなんて、私はやはり相当参っているのだろう。そういえば、ここ最近ずっと朝方まで勉強していた。睡眠時間を削るのはやはり良くないということか。
欠伸をしながら部屋を出て、洗面所で顔を洗う。冷たい水を顔にかけることでようやく半分ほど覚醒した。
さて、今日もまた参考書と睨めっこだ。
*
私は朝から颯爽と通学路を歩けるほど快活な少女ではない。上り坂を自分のペースでゆっくり、だらだらと歩いていた。同じ中学の制服を着た生徒たちが、次々に私を追い抜かしていく。
「おはよう、佐和子」
不意に声が聞こえ、それと同時に後頭部に衝撃を感じる。何事かと振り向く間もなく、頭をひっぱたいた犯人は私の前に正体を現した。私の親友、荒田洋子だ。
「朝から頭はたかないでよ、せっかくの優秀な脳みそが零れちゃうじゃない」
「あらごめんなさい。でも朝から間抜けな顔してたから、つい」
「つい、じゃないわよ。そんなんで頭はたかれる身にもなってよね」
そんな軽口を叩きながら、私は尚ものんびりと坂を上る。小鳥のさえずりを聞きながら、今日がテストの返却日であることを思い出した。
「じゃあ、また後でね」
洋子も私のペースに合わせる気はないらしい。私を追い抜いてさっさと歩いていった。決して仲が悪いわけではない。これが日常なのだ。私は私のペースで歩くし、洋子は洋子のペースで歩く。その距離感が私の性に合っていた。
気候は穏やか。桜はほぼ新緑へと生え変わり、心地よい風が吹き抜ける。このまま帰って昼寝したいぐらいの気候だ。
*
ああ、またお母さんに小言を言われてしまう。
帰ってきた答案用紙を見て、まずそう思った。あの人はこんな点数では満足しない。なんでもっと頑張れないの、と私を叱咤する。今回もきっとそうなるのだろう。
周りの生徒たちは自分の点数を報告し合い、一喜一憂している。教室内の全ての物音が今の私にとっては雑音でしかなかった。
「佐和子、どうしたのそんな顔して」
テスト、点数良くなかったの? と洋子が答案用紙を覗き込んでくる。私はすぐにテスト用紙を折りたたんだ。
「別に、いつも通りだけど」
そう言ってにっこり微笑んでみせると、洋子は呆れたような顔をした。
「まあ、そうよねぇ。神崎佐和子が赤点なんて取った日には、天地がひっくり返るわ」
「うふふ、ありがとう」
「別に褒めてないわよ」
どうして同じ星の元で生まれた同じ種族なのに、人間というものは優劣をつけたがるのだろうか。くだらないと思う。優劣をつけられて、それが何になるのだ。それは私の成長の過程に、絶対になくてはならないものなのか。しかし私には親に抗ってまで叶えたい目標などない。ならば、進むだけ進んでみよう。半ばヤケクソになった私は、そんなノリで今日まで生きている。
「ねえ、今日体育何だったっけ。バレー?」
「バレー先週までだよ。今日からバスケ」
うげぇ、と思わず声に出しそうになりながら顔を顰めた。バスケに限らず球技は嫌いだ。
「見学しよっかなあ」
「あんた先週も休んでたじゃん。あんま休むと先生に目つけられるよ」
「だって嫌なんだもん」
嫌なものは嫌なのだ。それの何が悪い。そう思いつつ洋子の顔をじっと見ていると、洋子は呆れたようにため息を零して笑った。
*
「ほら、ちゃんとボール目で追ってー」
体育教師の声が体育館に響く。ダンダンとボールを地面に叩きつける音や、生徒たちの足音にも負けず、体育教師の声はよく通る。
やだなあ。球技なんてこの世から無くなってしまえばいいのに。そうすれば私はもっと器用に世渡りできる。
どうせ体育で良い成績を取れたことはないんだから、適当にやり過ごそう。そう考えていた私は、だらだらとコートの中を走っていた。
「佐和子、パス!」
不意に私を呼ぶ声が聞こえたかと思えば、目の前にバスケットのボールが迫る。まさか自分にボールが回ってくるとは思わなかった私は、すごく焦った。
やばい。このままでは顔面強打だ。それだけは勘弁したい。でも避けることも両手を出して受け取ることもできない。そんな反射神経は生憎持ち合わせていなかった。畜生、誰だ私にパスした奴。あとで覚えてろ。
目の前にボールが迫る。次の瞬間には、鼻から血が噴出しているのだろうか。痛いのは御免だ。
そんなことを考えていると、奇跡が起きた。私の目の前に迫っていたボールが、ふっと視界から消えたのだ。
「あれ?」
顔面強打、鼻が折れる、入院。そんな負の連想をしていた私には、何が起きたのかすぐには理解できなかった。
気づけば、体育館内が静まり返っていた。皆が唖然と私を見ている。私が自意識過剰なのかとも考えたが、間違いなくコート内の生徒の全ての目は私に向いていた。
「佐和子」
洋子が私に近寄り、強い力で私の両肩を掴んだ。爪が肩に食い込んで痛い。
「あんたエスパーだったの?」
「何言ってるの。私の名前は佐和子よ」
「そうじゃなくて。超能力者なのか、って訊いてるの」
「誰が」
「あんたが」
洋子の強い目力に気おされ、思わず後ずさる。
私が超能力者? そんなバカな。
「あんた、自分が今何やったか分かってる? ボールがあんたの目の前で急に進路を変えたのよ」
「うそ。何それすごい」
「うん、すごいよ。一体何したの」爛々とした目で洋子が訊いてくる。
「何もしてないけど」
「うそでしょ」
「いや、これは本当」
私にも何が何だか分からないのだから、説明のしようがない。私がそう言うと、洋子の目の輝きが増した。
「じゃあ、佐和子はやっぱりエスパーなのね。私、そんな親友を持てて嬉しい」
どう解釈すればそうなるのだ。私は断じてエスパーなどではない。きっと、私たちの死角で誰かがボールに触れたのだ。そうに違いない。誰だ私にパスした奴。あとでぶん殴ってやる。
*
どうやらあの夢の中で金髪少年が言っていたことは本当だったようだ。
不思議なことに、私が動けと念じれば、無機物ならば何でも触れずに動かすことが出来た。何だかよく分からないが、皆がキラキラとした目で私を見るので、悪い気はしなかった。だから調子に乗って何回も念じた。
その結果、私の日常は次第に騒々しいものへと変わっていった。私の超能力を見たいという輩があちこちから押し寄せたのだ。その中には子どもだけでなく、大人も沢山いた。
「こちらが阿佐町内で今話題の女の子、神崎佐和子さんです!」
カメラのレンズがこちらに向けられ、思わず頬が引きつった。流石に調子に乗りすぎた。ノリで生きてきたとはいえ、限度をわきまえるべきだった。この時私は猛烈に後悔した。
レポーターの女の人がカメラの前でうんたらかんたら喋っているが、私の頭には何一つ入って来なかった。何やら色々質問されたが、自分が何を喋っているのか全く分からなかった。だめだ、完全に緊張している。
「では、早速見せてもらいましょう!」
レポーターがそう言うと、目の前にテーブルが出される。その上にはダンベルや大量の辞書など、見るからに女子中学生の力では持ち上げられないものが並べられている。
私はいつものように動けと命じた。テーブルの上にある全てのものがすぐさま宙に浮いたのを見て、周りの野次馬がどよめく。レポーターが奇声のような悲鳴を上げる。見上げると照明が眩しかった。
注目されることは、嫌じゃない。でも、どうせ注目されるならもっと別のもので評価されたかった。こんなオカルトで世間から注目を集めるのは、不本意だ。
*
世間で次第に騒がれるようになり、学校に色々な大人が押し寄せた。怪しげな雑誌にでかでかと私の記事が載り、何か裏があるのではないかと探られたりもした。
正直、めんどくさい。テレビ出演って、もっと華やかなものだと思っていた。何だこれは。罰ゲームじゃないか。
「佐和子、早く乗りなさい」母が私を呼ぶ。「皆を待たせてるんだから」
皆って誰だ。洋子は待っていないのか。私はどこに行くというのだ。
*
「佐和子、最近どうしたの?」
洋子が私のテスト用紙を覗き込みながら言う。私は答える気にもなれず、ただ机に突っ伏していた。何をするのも面倒だった。酷く疲れていた。
「ねえ、最近全然勉強してないの」
私が小さく呟くと、洋子は目を丸くした。「あんたが? うそでしょ」
「本当なの。一日があっという間に終わっていくの。ねえ、どうしよう。私どうすればいい?」
「そんなの、自分で考えなさいよ」
洋子の冷たい返しに、悲しくなると同時に少し安堵した。洋子は何も変わっていない。私と違い、まだ自分のペースで歩いている。
私は今、どの辺りを歩いているのだろう。それすらも分からなくなってしまった。
ああ、今日もまたテレビの取材が待っている。
*
「……ない」
翌年の春。自分の受験番号はどこにも見つからなかった。
思わず目頭が熱くなる。あれ、何だこれ。
私は今まで何のために勉強していたのだ。何のために両親の叱咤を受けながら塾に通ったのだ。何のためにいい子を演じてきたのだ。
私は急いでその場を立ち去った。周りは合格を喜ぶ声で溢れている。私は涙が零れそうになるのを必死に堪えながら、正門を出た。笑い声が鬱陶しい。
“君に僕の力を貸そう”
金髪少年は夢の中でそう言った。けれどこんな力が何になったというのだ。私の未来は全て潰れた。悔しい。あの金髪少年は救いの神なんかじゃない、ただの化け狐だったのだ。
*
「惑わされたのは、君じゃないか」
金髪少年が言う。ああ、また会った。やっと会えた。
「あれから一度も夢に出てこないから、寂しかったわ」
「そんな怖い顔で言われても、嬉しくないよ」
当然だ。腹が立たないほうがおかしい。こんな尻の青いがきんちょに、私の人生が軽く捻じ曲げられてしまったのだから。
「ところで、どうしてくれるのよ。私の人生」
「だから、惑わされた君が悪い」
「あんなの、惑わされないほうがおかしいわよ」私は思わず声を荒げた。「そもそも、助けてくれるって言ったのに何で反対のことしてんのよ」
「君を試したのさ」金髪少年は間髪いれずにそう答えた。その妙に笑った顔が腹立たしい。
試した? 何のためにそんなことをしたのだ。私を救うためだとか言っていたのは嘘だったのか。
「ああそうさ。君を救う気なんて毛頭ない」私の心の呟きを聞き取った金髪少年が勝手に答える。
「でもさ、言っただろ?『気づかなきゃ』って。僕の目的は君に気づかせること。それだけだった。だから、別にやり方は何だって良かった」
そう言ってのける金髪少年の顔面をへし折ってやりたかったが、殴ったところで手ごたえなどあるものか。だってこれは夢だから。
「物分りがいいね」金髪少年がまたもや心の内を読んで頷く。
腹が立つ。私はもっと器用に生きられたはずなのに、この金髪少年に乱された。人生を狂わされた。
「ねえ、どうにかしてよ。貴方のせいで行く高校なくなっちゃったんだから」
「時間を戻してあげようか?」
「できるの?」
私の問いかけに、金髪少年は頷いた。あまりにもあっさりと頷くものだから、私を弄んでいるだけなのではないかと疑ってしまう。
「大丈夫。信じてよ」
金髪少年は微笑を浮かべながらそう言った。「でもその前に一つ訊く。本当に大切なものに、気づけた?」
「何よ急に」
「その答え次第で、僕の行動は変わってくるから」
「そんなこと言われたって、よく分かんないよ」
「まあ、そうだろうね」金髪少年が呆れ顔で言う。「君は鈍いから」
決め付けるような物言いに更に腹が立ったが、今の私には言い返す言葉がない。何が大切なのかなんて、よく分からない。分からないから、ここにいるのだ。
出来ることならエスパーになる前の自分に戻りたい。なんだかんだで洋子と一緒にいる時が一番楽しかった。互いに嫌味ばかり言い合っていたが、それも私にとっては必要な時間だった。洋子はどこの高校に行ったんだろう。それすらも知らない自分が情けない。
あえて言うならば、大切なものは洋子、ってところだろうか。
「そうか。分かった」
金髪少年が目を細めて口元に弧を描く。また人の心を勝手に読んだのか。
彼は以前と同じように、私の前に手をかざした。眩い光があふれ出し、私の視界は白く染まっていく。
「その答えを待っていたんだ。気づいてくれて、良かった」
その言葉を聞いて私は目を凝らすが、白い光に視界を覆われていて、金髪少年の姿は確認できなかった。ちょっと待て、別れの前に一発殴らせろ。原因を生み出し、散々私を苦しめておいて、一言も謝罪がないなんて許さないぞ。
必死に手を伸ばすと、何かを掴んだ。温かいそれを、逃がすまいと強く握り締める。ギャアと叫ぶ声がした。金髪少年の声だろうか。それにしては、少し品がない。
どうして夢なのに感覚があるのか。そんなことを考える余裕は無かった。これっきり金髪少年と会えなくなるのは嫌だ。ただ、それだけだった。
*
目を覚ますと、白い天井が目に入った。どうやらベッドに寝かされているようだ。
何だか息苦しい。あれ、鼻の穴にティッシュが詰め込まれている。何でだろう。
「あ、気がついた」
私の顔を覗き込んできたのは洋子だった。相変わらず、人を嘲るような笑みを浮かべている。
「あんた顔にボール直撃して失神したのよ。いやー、焦ったわ」
ごめんごめん、と反省の色を全く見せずに笑う洋子。いつもの私ならその頭をひっぱたいてやるところなのだが、今はそれよりも確かめるのが先だ。
「ねえ、今日って何月何日だっけ?」
私が洋子に尋ねると、洋子は目を見開いた。佐和子、あんたまさか。そう呟く洋子の考えていることは、手に取るように分かった。「言っとくけど、記憶喪失じゃないから。そんな面白展開あってたまるもんですか」
「あはは、残念。今日は五月十八日よ」
それを聞いて、私は金髪少年に心から感謝した。ありがとう少年。鼻血万歳。
「ところでさあ、それ何?」
洋子が私の左手を差してそう尋ねた時、私はようやく自分が何か握り締めていることに気づいた。手を開くと、黒い羽根が数枚。
「カラス?」と洋子が首を傾げる。カラスの羽根を引っこ抜いた覚えはないが、それ以外に思い当たる節はあった。
私はベッドから立ち上がって窓を開けた。つやつやと光沢のある漆黒の羽根を、外へ飛ばす。風に吹かれた黒い羽根が空へと舞い上がるのを眺めながら、心が晴れ晴れとしていくのを感じた。
- end -
2010/11/13