「あら、電気くらいつけなさいよ」
気まずい沈黙を破ったのは井川のおばさんだった。エプロン姿のおばさんは俺と朱のほうを見て、「二人とも、良かったら晩ご飯食べていかない?」と笑みを見せる。
「そうだよ。せっかく来たんだし、食べてってよ」
井川もそう言って、朱の腕を取る。どうしようかと悩む俺に対し、朱はあっさりと「じゃあ、食べていこうかな」とおばさんに笑い返した。そりゃそうだ。こいつらと俺とでは、立場が違う。
「坂下くん?」
不意に大きな瞳が目の前に現れ、思わず仰け反った。そんな俺の顔を、井川は心配げにのぞき込む。
「どうしたの?」
薄い唇が近づく。わざとだと分かっていても、つい反応してしまうのが男の性である。いや待て、さっきまで男だったんだ。男だと思えばいい。自分に言い聞かせる。しかし柔らかそうな肌も華奢な身体も、目に留まってしまえば女でしかなかった。
「じゃあ、ご馳走になります」
「やった!」
俺の言葉を待っていたかのように、井川が俺から離れる。何がやっただ。一ミリも思っていないことを、よく言える。
「で、ハンバーグを食って帰ったと」
「ごめん」
呆れ顔の真壁が、頭上から俺を見下ろして言った。コンクリート上に正座をさせられた俺は、ひたすら謝るしかない。
ちなみにハンバーグは特性デミグラスソース付きだった。思わず頬が緩んでしまうほどの美味さだった。レンジでチンする我が家とは大違いである。
「ごめん、しか言えないのかお前は」
「ぐえっ」襟首を掴まれ、首が絞まる。「ちょ、真壁が行ってこいって行ったんじゃん」
「たいした情報手に入れてねえじゃねえか。いいように振り回されやがって」
そう言って襟首を振り離される。咳き込む俺を見下ろすようにして、真壁は口を開いた。
「井川という名字は偽名で、あいつは女。しかも、魅月の双子の姉か」
真壁の言葉に、慌てて頷く。
「そう。確かに、そう言ってた」
「魅月の姉が、弟の復讐にやって来たわけだ」
ふっ、と笑みを零す真壁。その様子が余裕たっぷりで、俺には全く理解不能だった。なぜ笑う? 何がおかしい? 分からない。
「本当にそうなのかねぇ」
真壁が言う。意味が分からなかった俺は、疑問を口にする。
「どういうことだよ。復讐が目的じゃねえってこと?」
真壁は目を細めて俺を見やる。しかし真壁はそれ以上何も喋らなかった。視線を宙に彷徨わせ、何やら考え込んでしまったのだ。自分の世界に入り込んでしまった真壁を遮るなど、とんでもなく無謀な行為である。二年間の付き合いで学んだ俺は、深く息を吐きだした。
「とにかく、もう少し井川を探ってみるから」
そう言ってみるが、真壁からの返事はない。それでも、俺のやるべきことは変わらない。井川と真壁、両者に甘い蜜を吸わせればいいだけの話なのだ。
大丈夫、俺ならやれるさ。自分に言い聞かせ、ゆっくりと立ち上がる。しかし、すぐに膝から崩れ落ちてしまった。足が痺れてしまったのだ。そのせいで真壁の胸に飛び込むことになり、俺は後頭部に硬い拳骨を食らった。本当に、散々だ。
- continue -
2012/11/28